一人時間

毒親育ちの子育て 

⑧シャフリングベビーその後

どうもこんにちは

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娘は、私が知っているどの赤ちゃんよりも歩き始めるのが遅かった。歩き始めどころか、寝返りもつかまり立ちも、赤ちゃんの親が気にする体の発達のほとんどが目安の月齢よりも遅かったので、正直なところ当時の私は毎日気が気ではなかった。

 

ねえハイハイしないの?

赤ちゃん特有のかわいい動作と言えばハイハイである。ハイハイは全身の運動で、特に足腰が鍛えられるらしい。初めての育児で右も左もわからない私は、発達の目安についてはWebで情報を得ていたのだが、そこでも、「早いうちから無理に歩かせるのではなく、なるべくたくさんハイハイをさせてください」といった内容の記事をよく目にした。

よーし、ハイハイをなるべく長くさせたらええねんな、と私の心は準備万端だったが、娘の方はいつまでたってもハイハイを始めようとしなかった。無理やり歩かせるのがダメなのはわかった、でも無理やりハイハイはダメとは書いてなかったな…と強制的にうつ伏せにしてハイハイを無理強いしてみたりしたが効果はなかった。

当時同じハイツに住んでいた、娘と同じ月齢の男子は、体の発達がすさまじく早く、娘がでーんと座っている横で、すでにとことこ~とどこへでもひとりで歩いて行きそうな、彼のそんな様子を見かけるたび、私は焦りを感じずにはいられなかった。

 

 

娘はある時、ついにハイハイを始める、のかと思いきや、お座りの姿勢のまま、おしりをぴょこぴょこ動かし前進するという移動方法を編み出した。「ぴょこぴょこ」などといいように書いたが、性格に形容すれば「おしりずりずり」である。赤ちゃん連れの母が平日昼間に行く場所第1位の、子育て支援センターでも、1人おしりをずりずりして進む娘は、非常に悪目立ちしていた。

 

 

これは大丈夫なのか

お得意のWeb検索の結果、ハイハイせず、おしりをずりずりして進む赤ちゃんは、まれではあるが一定数存在していて、「シャフリングベビー」と呼ばれるらしい。原因は何?その後の発達がどうなるの?私は不安でいっぱいだった。そこで私は、娘を抱えて、様々なところへ発達相談に出かけた。市役所、保健士さん、小児科の先生、言語聴覚士さんなどいろんな人に娘を診せて話を聞いて回ったが、どこでも言われたのは「特に問題は見られないので、様子を見ましょう」だった。私はとてもとても不安だった。何せ、こんな移動方法の赤ちゃんは見たことがないのだ。そんな中、唯一私の希望となったのは、娘のようにハイハイをせずおしりで移動していた赤ちゃんが、そのあと特に問題なく歩いて走って生きてますよ~、という内容のブログだった。そのブログにとても勇気づけられたので、今私はこれを書いている。

 

 

見守るしかなく

娘はその後も、同じ位の月齢の子がとたとた~と可愛く走り回っている中、1人おしりずりずりを貫き通していた。つかまり立ちをしたのも1歳を過ぎていたし、伝い歩きよりもおしりずりずりの方が楽だったのか、ずっとおしりをずりずりしていた。その間、実母や実祖母から、本当に大丈夫なのか、検査してもらった方がいいのではないかと再三言われたが、もう行けるところは全部行ったつもりだったので、どうしようもなかった。

検索して出てきた「ハイハイしている子を、早いうちから無理に歩かせるな」という心の準備をしたままだったので、無理に歩かせることはせず、娘には思う存分おしりずりずりを楽しんでもらった。(  たくさん「ハイハイを」させることはできなかったし、「早いうち」というには遅すぎではあった。)  

すると、もう2歳になろうかという頃、娘はにわかに立ち上がり、いきなり7歩ほど歩いた。これは…ブッダの生まれ変わりなのか…!?と私の中二病心を大きくざわつかせた後、その日からちょっとずつ、立ち上がって歩くようになった。

 

 

その後どうなった

現在もうじき7歳になるが、その後の体の発達や、運動能力に問題はないように思う。怖がりで慎重派なので、ジャングルジムを他の子と同じ高さまで登れないとか、自転車に中々乗れないとか、そういう懸念はあるが、歩けないとか走れないとかいうことは無い。言語や情緒等の発達にも問題はないと思われる。3歳半ごろまでは非常に警戒心が強く、人見知りで、幼児とは思えない危機管理意識を発揮することもあり、ちょっと難しい子なのか?とも思っていたが、大きくなるにつれその辺のこだわりも和らいできている。

これは私の推論でしかないが、怖がりで慎重な娘は、かなりのめんどくさがりでもあるので、「おしりで進めるならこれでいいやん!!ハイハイするの、なんか怖いし!立つのはめんどくさいし、立たんでもこれなら手使えるし!」と、おしりずりずりを選択し、長いことやっていたのではないだろうか。発達の問題ではなく、性格の問題だったのではないかと、今の私はそう考えている。

 

娘がおしりをずりずりしていたころの私と同じように、今もし不安にさいなまれている人がいれば、ただの一例ではあるが、その人にこの記事が届けばよいと思う。

 

⑦子供の時間感覚

どうもこんにちは

見に来てくださってありがとう

 

私は自分で自分を「子供の気持ちをなかなかによくわかっている親」だと思っていたのだが、ここ最近、そうでもなかったと思わざるを得ない日々が続いている。

 

 

子供の気持ち

「子供の気持ちがわかる」だなんて、大それたこというじゃなぁ~いと思われたことだろう。しかし私が今までわかったつもりでいたのは、残念ながらわが子の気持ちではない。

私が産んだとはいえ、我が子と私は別人格の他人で、気持ちを理解することはほぼ不可能である。ネガティブでウェッティーな私とはうって変わって、娘にはドライ&ポジティブなところがあり、特に対人関係においての割り切り方は凄まじく、話しているとどちらが大人なのか分からなくなる時がある。それに、6歳の思考回路というのは、なかなかの迷宮で、追いかけるのもやっとなのだ。これは先日娘が話してくれたことなのだが、「昨日お友達がね、マスクしたまま寝ちゃったんだって!それでね、朝起きたらマスクがびよーーーーーんだって!爆笑!!」…どのへんが爆笑なのか、わかる人がいれば教えてほしい。

 

わが子の爆笑ポイントもいまいちピンとこない私が、一体どこの子供の気持ちをわかった気になっていたのかというと、それは「自分自身が子供だった頃の気持ち」である。わかるというより「よく覚えている」といったほうが正しい。実際のところどうなのかは知らないが、子供のころ親との間で愛着形成が上手くいかないまま来てしまったと思われる私は、満たされない、幼い私を心に抱えたまま大人になった感覚を持って過ごしている。そのせいで生きにくいこともしばしばあるが、こと育児に関しては、内なる幼い私の声を、娘との関係構築にうまく生かしていこう、といい方に考えてきた。親との関係の中で感じた、悔しい気持ちや、悲しかった気持ち、自分の気持ちを無視されて恥ずかしくて嫌だった気持ちなどを参考に、娘への接し方を考えることも多い。

 

しかしそんな私にも、どうしても思い出せないことがある。

 

それは子供の持つ時間感覚である。

 

 

アダルトチルドレン話にもちょこっと触れています

piija.hatenablog.com

 

 

 

「早くして」

娘はとにかく急がない。とくに朝!もうすぐ家を出る時間だ、というのに、着替えも、朝ごはんも全く終わっていない状態で、音楽をかけ、踊りを踊っている。ほかにも、絵を書き出したり、絵本を読み出したりとパターンは色々ある。さらに驚くべきことに、家を出る時間が「過ぎていても」それをやりだすのである。そして夜!2歳半から昼寝を拒否し始めた娘の、これまでの人生における総睡眠時間は、子供の心身の健やかな成長に必要な睡眠時間に全然達していないと思われるので、心配でならない。よって毎日最低でも10時間の睡眠は絶対に確保してほしいところなだが、ご本人にとってはそんなことなど知ったこっちゃなく、寝てほしい時刻が近づこうが過ぎようが、もちろん急ぐことはない。むしろ毎日まだ寝たくないとごねている。

 

一方こちらはというと、それらを逐一全部急かしているわけで、そうなると、毎朝/毎晩、私から発せられる言葉はすべて「早くして!」になる。これは会話では無いよねェ~と思っていたら、昨晩、私は窮地に追い詰められた。

 

娘が寝る前のこと。既に就寝目標時間はとっくにすぎていたため、いつもの通り、さあ寝よう、早く寝よう、早くして!歯磨こっか!絵本はどれ?寝る部屋に持って行くものは何?早く2階上がろう!とにかく早く寝よう!!とやっていると、私の目の前で階段をのぼっていた娘に、振り向きざまに言われてしまった。

 

「わたしね、早くしてって言われたくないねん。早くしてって言われると、よけいに早くできひんねん。」

 

「ほんならいわれる前にさっさと動かんかい!!!!!!」と喉まで出かかったが飲み込んだ。私は穏やかな母でいたいのである。私だって「早くして」と、言わなくていいなら言いたくない。でも現状はどうだろう。言いたくないと思いながら言いまくっている。言っているということは、最近流行りのアドラー心理学的にはつまり「言いたいから言っている」ということなんだろう。

言い訳としては「でも怒ってはない」というのがあるが、怒りたくないというのは私側の希望でやっているだけで、娘の方はもう「早くして」を普通に言われるだけでも嫌なのである。「(母が) やいやい言わないでも (娘が)さっさと動く」これが2人にとって目指すべきWinWinの状態である。非現実的な理想としか思えないが、きっと目指すべきものなのだろう。

 

今も昔も

偉そうに毎日娘を急かす日々だが、では昔の自分はどうだったかと言うと、同じ、もしくはそれ以下だったように思う。残念ながら6歳の頃の朝の支度の記憶はもうないが、小中高大と、朝でも昼でもいつも時間ギリギリ、むしろ遅れて家を出ていたし、友達との待ち合わせ等は毎日遅刻していた。ならばちょうどよい、いつものようにそのころの自分の気持ちを思い出し、子供がさっさと動けない原因を探り出して、それを取り除けばよい。

しかし今の私には、毎日遅刻していた頃の気持ちなど、もうどうしても思い出せないのである。時間に間に合ったことのなかった私も社会に出て、遅刻をしている場合ではなくなった。新卒で就職し一人暮らしを始めたら、家はぐちゃぐちゃ、洗い物も洗濯物もたまりにたまって、ボロボロの生活だったが、それでも出勤時間に遅れるということはなかった。だからきっと娘も、これから様々な経験を積めば、時間を見ながら動いて、家を出る時間に遅れることもなくなるだろう。小さな子供にはまだ正確な時間感覚が身についていないこと、大人のように早く動けないことは、「理論的には」知っているので、親である私は、本来ならば、ゆっくり動く娘を優しい目で見守り、早く動けるよう励まし、踊りだしたら優しくたしなめ、毎日少しずつできるようになるまで手助けし、導くのが理想であること、そしてそれが回り道のように思えて実は一番の近道なのだということもわかっている。

しかし困っているのは「今」なのだ。なぜなら、娘がさっさと動いてくれないと、私が遅刻するのである。時間が迫っても(過ぎても)急がない気持ちを、あまりにも思い出せないので、娘に聞いてみた。「おかあさんも子供の頃、朝お友達との待ち合わせに、間に合ったことがなかった。いつもいつも遅れていた。でももう、その時、なんで急がなかったのか、なんで毎日平気で遅れていたのかが、どーーーしても思い出せない。だから教えてほしい。もう時間が過ぎているのに、なんで急いで用意しようとしないのか、お母さんにはわからない。もし良かったら教えてほしい。」

 

1回やらせてみた

娘の返事は「わたしにもわからん。」だった。どうすれば急かされなくても娘がさっさと動くのか。困り果てた私は、娘自身が困れば、身に染みてわかるに違いない。そして次から急ぐようになるだろうと考えた。しかし本当に遅刻する時間まで放っておいたら私がパートに遅刻してしまうので、ある日、以下のように伝え、様子を見ることにした。

 

「30分になったら家を出るから、それまでお母さんは、早くして!って言わないでおくね。そのかわり、自分で時計をみて、間に合うように行く用意をしてごらん。30分になったら、用意が終わっていなくてもお母さんは行くからね。あとしないといけない用意はこれとこれとこれだね。じゃぁ頑張ってみてね!」

 

30分になって様子を見ると、娘は用意をひとつもせずにぽかーんとテレビを見ていた。もちろん想定内である。時間になったことを知らせると、慌てて「待ってよ~」と言い用意を始めたので「30分になったらと行くと言ったからお母さんは本当に行くね」と穏やかに告げた。娘は泣きながら「ごめんなさい」といい、慌てて、私が靴を履いているところに追い付いてきた。もちろん用意は満足にできていない。「お母さんにごめんを言う必要はないよ、時計を見て動かないと困るのは自分だからね。明日は頑張ろうね」等、声をかけ、用意を整え一緒に家を出た。(そんなやり方では甘いと思われるかもしれないが、私の遅刻もかかっているのでこれが限界だった。)

 

 

次の日、娘はどうするかな~と思って見ていたら、全く支度が出来ていない状態で、絵をかいていた。

 

 

すぐ忘れる

中学1年生のある日、数学の宿題をしていかなかった私は、クラス全員の前で(着席したまま)先生に両方の耳を何十秒間か引っ張り上げられたことがあった。あまりの痛みに皆の前で泣いた事を覚えている。思春期の私にとって、強烈に恥ずかしい体験だったが、ではその後、私が学校の宿題を必ずするようになったかというと、そうではなかった。

私は、娘が一度幼稚園に遅刻するなどの痛い目に合わないと、朝の支度を自分から急ぐようにはならない、裏を返せば、痛い目を見れば急ぐようになる、と考えたのだが、間違っていた。20年前の私だって、痛い目にあっても宿題をしなかったのである。子供は、怒られたって、恥ずかしかったってすぐに忘れてしまう。すぐに忘れてケロリとできるところが、子供の良いところであり、人間の持っている強さでもある。

 

 

心が動けば

娘は匂いと音、そして手触り肌触りに少し敏感なところがある。赤ちゃんの頃から肌の保湿を嫌がったため、お風呂上がりのケアはほとんどしてこなかった。もうすぐ7歳になる今も化粧水やクリームの、においや感触が気持ち悪い!とスキンケアを嫌がる。スキンケアをしなかった場合の将来的なデメリットを何度伝えても、かたくなに拒んだ。

先日キッザニアに初めて行ってきたのだが、そこで娘が体験したお仕事の中に、ハンドクリーム作りというのがあった。親はガラス張りのブースの外から見ていたため、どんな説明を受けているのか全く聞こえなかったのだが、娘は白衣を着て、とても楽しそうにハンドクリームを作っていた。

キッザニアから帰った翌日、いつもスキンケアを嫌がる娘が、キッザニアでもらってきたハンドクリーム(市販品)をにわかに取り出し、手や、顔にまで塗りだした!「あのね、バリア機能って知ってる?手洗うと、菌もなくなるけど、うるおいもなくなるんだって。これを塗ると、お肌のお水が増えるんだよ。」とのこと。私は本当にびっくりした。あんなに、何年にもわたって、再三言ってきたのにやろうとしなかったスキンケアを自ら進んでしているのである。

本当に心が動けば、娘はいやなことでも進んでやるんだということに私は気が付いた。何も体験しない親の分の、キッザニアの高い入場料の元が取れた気分だった。しかし同時に、私からの日常の声掛けでは、娘の心は動いていなかったということにも気付かされた。

 

それでも、今後も親の仕事として、根気よく、やるべきことをやらなかった場合に子供自身が被る不利益を説明し、やった場合どんなにいいことがあるか、また親にとってどれほどありがたいかを伝えるというのを、一生懸命やっていくのは変わりない。私の希望としては、きちんと説明したら、あとは子供の判断に任せる育児をしたいが、この度の遅刻のように、結局自分の仕事に影響が出ると思って、できなかったことが多い。しかし、娘が一年生になるのを機にいったんパートを辞めるつもりなので、初めて自分の仕事のことを意識せずに、娘と一緒に過ごすことができる。この機会に、娘への接し方を見直し、信頼関係を強化して、急かさずとも動いてくれるような小学生になってもらえたらと思う。

そのためには、私から娘への声のかけ方を「聞こうと思える」ものにしていこうと思う。

 

 

参加してみました。もしよかったら押してください

⑥マリオとポケモン

どうもこんにちは

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神降臨

これまでの記事でも触れてきたように、十数年来アダルトチルドレンをこじらせている私は、娘を育てながらで、一緒に自分の子供時代のやりすような日々を過ごしている。

そんな生活に多大な影響を及ぼす神、それはユーチューバーのヒカキン(敬称略)である。

 

 

 

楽しいヒカキン生活

初めて見たヒカキンさんの動画のことなどもう思い出せない。なぜならここ数年、毎日のように彼の動画を見ているからである。これまで彼が配信した動画は星の数ほどあるので、見ても見ても終わりがない。過去の動画が勝手にお金を稼いでくれる素晴らしいビジネスモデルの餌食となってしまった。はじめはふーん、これがヒカキンかぁ…ぐらいに思っていた私も、多分、チョコエッグをどんどん開封していく動画か何かを見たあたりから、親子そろってヒカキンワールドにどんどんハマり、今では親子でHIKAKINさんの握手会に行くことを夢見て生きるようになった。

 

ヒカキンさんのおかげで、生活がずいぶん楽しくなった。ヒカキンさんがヨーグルトを凍らせてアイスにしているのを真似してみたら、娘はその夏じゅう凍ったヨーグルトをがりがりやっていたし、ヒカキンさんがカップヌードルをチャーハンにリメイクした週の週末は、家族みんなで三種類のカップヌードルチャーハンを食べた。登録者数が1000万人に到達した際は、ヒカキンさんとともに私も号泣。家族三人でせっせとビートボックスを練習し、ヒカキンさんがUSJに行く動画を何度も何度も見て、ついにUSJにも行ってしまった。

そんなヒカキンさんに影響されて、最近、我が家ではポケモンをやることになった。

 

 

 

人がゲームやってるの見て楽しい?

私は昔から運動神経があまり…いや全然良くない。なので、スーファミドンピシャ世代ではあるものの、ドンキーコングとかマリオとかそういうタイミングよくボタンを押す系のゲームは大の苦手である。苦手というかできない。それゆえ小学生の頃は大体、弟の華麗なプレイを隣で見学→やいのやいのと横槍を入れてはうっとおしがられていた。

Youtubeの動画のジャンル?のひとつにゲーム実況というのがあるのだが皆さんご存じだろうか?視聴者は、配信者がしゃべりながらプレイするゲームの画面を見て楽しむ。あるとき、娘のお友達のお母さんと、子供が見ているYoutubeについて話していたとき、そのお母さんはゲーム実況について、「人のゲーム見て何が楽しいの?と思う」と言っていた。私はその人に多分相当へんな人と思われてしまっているので、イメージ回復を狙って「ね~、ほんとに~」と返答しておいたのだが、本当は人のゲームを見るのはとてつもなく楽しいと思っている。むしろ自分でやるより、上手な人がやるのを見るほうが楽しいぐらいなのだ。なにせ自分でやっていたらマリオは一生ゴールの旗までたどり着けない。

 

私がゲーム実況の存在を知ったのも、もちろんヒカキンさんがきっかけである。最初はヒカキンさんがニンテンドースイッチでマリオのゲームをやっている動画を偶然見た。偶然というか一つ動画を見終わったら、「次の動画」として勝手に出てきたので素直に見てしまった。これがYoutubeのやり方か…!

 

 

 

 

マンマミーア

前述のとおり、スーファミドンピシャ世代である私だが、正直言って、マリオ大好き!とかピーチ姫かわいい!とか思ったことはなかった。というかかわいくないと思っていた。マリオはどうみてもおっさんだし、敵の茶色いキノコに至っては顔怖すぎんか。

ところがヒカキンさんは、ゲームに関係ない動画の中でもたびたびマリオマリオと言うのである。任天堂のショップで大量にグッズを買ってきたり、歴代マリオのフィギュアが出てくるチョコエッグを開け続けたり、USJのマリオエリアに誰よりも先に行ったり、そのUSJから人間が入れるぐらいの箱でマリオのグッズが送られてきたりする。ヒカキンさんはそのたびに、マリオ大好き、かわいい、最高!!というものだから、私もなんだか知らないうちにマリオが大好きになってしまった。もともと知らない存在ではないどころか、子供の頃からマリオに慣れ親しんだドンピシャ世代、好きになったら加速は早い。いつのまにかテレビ横の一角にマリオコーナーが誕生、チョコエッグのおまけやマクドナルドの景品などがどんどん増えていった。

そこへ来てのゲーム実況である。苦手なゲームを自分でやらなくても、マリオが飛んだり跳ねたりするのを見ることができ、しかも大好きなヒカキンさんと一緒にゲームをやっているかのように盛り上がれると来た。もう楽しくないはずがない。娘と私(と内なる己)は、マリオが地面の底?に落ちるたびに「あーーー!!!」と叫び、何度探しても見つからない緑色の星を必死で探し、大盛り上がりで喜んだ。

 

 

やっぱりやりたい

自分でやってもできないからゲーム実況を見ているのに、見ているうちに今度は自分でもゲームをやりたくなってくるから不思議である。任天堂がプレイ動画の配信を許可している理由はもちろんここにあるのだろう。頼まなくてもたくさんの人が勝手に宣伝してくれる。任天堂のハイリスクハイリターンに見事に引っかかった私が、自分でもゲームをやりたくなってきたころ、ヒカキンさんが始めたのが「ポケットモンスタースカーレットバイオレット」の実況である。

 

 

 

ポケモン言えるかな

ポケモンと言えば、私たち世代にとってはドンピシャもドンピシャ、むしろどや顔で語りたくなるような話題なのである。何を隠そう赤緑世代、なんならポケモンの誕生に立ち会ったぐらいの自負がある (大間違い)。

今ちょっと調べてみたらポケモン赤緑の発売が1996年と出てきた。その頃私は小学校高学年だったが、学校での話題はポケモンポケモン、男子も女子も皆ポケモン、私のようにゲーム自体をやっていなかった子でも、シールだカードだキーホルダーだと話題には事欠かなかった。♪ピカチュウカイリュー…とポケモン150匹を列挙していくあの歌をみんな歌っていた。

 

ある日、我が子が幼稚園で塗ったぬりえを持って帰ってきた。「ねえお母さん、これゼニガメってゆーんやで。ポケモンやで!」なんて言われた時にはもう鼻高々。「その横の塗ってないやつがヒトカゲフシギダネやろ?」ドヤ顔である。

(用意してくれる塗り絵がゼニガメなのは先生も我ら世代だからだろう。)

 

 

標的

2022年秋から、新発売されたポケットモンスタースカーレットバイオレットの実況を始めたヒカキンさんは、言うならば「初代赤緑を本気で攻略し、その後のポケモンはあんまり知らん」勢のようである。そして、今ポケモンを求めている幼稚園児~小学生の親世代の多くが、まさにヒカキンさんと同じ「初代はかなり知っているけどその後は知らん」人たちなのだと思う。我々世代は先程も述べた通り、ゲームをやっていない女子たち(つまり現在は母)でさえもポケモンポケモンと大騒ぎしていたので、赤緑の頃のポケモンだけは一通り知っている。だからどうしても、懐かしいし、嬉しくなる。それを子供が好きになってくれて、一緒に楽しめる。自分たちが子供のころ夢中になったものにもう一回触れられるだけでもわくわくするのに、家族みんなで楽しめて、最高なのである。

ゲーム実況全編を通して、初代の「自分が知っている」ポケモンが出てきた時のヒカキンさんの喜びようはすごいものがあった。もちろん私も、ついでに言うと同じ学年の夫も同じように喜んだ。今作で400匹程出てくるポケモンに、結構な割合で初代のポケモンが紛れ込んでいることに、ポケモン会社から我々世代へのターゲット認定をひしひしと感じた。我々のお財布はロックオンされている。昨日はイトーヨーカドーで、娘にイーブイのぬいぐるみ(¥2000)が欲しいと懇願され、あまりの可愛さに即時却下できなかった。小一時間悩んで正気を取り戻し、500円の小さなイーブイのフィギュアでお互い痛み分けとなった。

 

といろいろ書いたが家族3人でたのしむポケモンは最高なのである。さてヒカキンさんのカップラーメンでも買いに行こうか。

 

⑤子供にYouTubeを見せること

どうもこんにちは

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新時代

3年ほど前、身の丈にあった中古住宅(築10年)を購入、そのタイミングでテレビを新しく買い換えた。テレビを買い換えるのは実にお久しぶりのことで、前回買い換えたのはその昔、地上波放送がアナログ放送からデジタル放送に切り替わるという時だった。「今お使いのブラウン管テレビは映らなくなります!!!」と今お使いのブラウン管テレビが毎日言うものだから、それなら仕方ないと買い替えた、「地デジを見るための」テレビを令和になってもずーっと長い間使っていた。

ジョーシンの人が新居に運んできてくれたテレビは、地デジが見られるのはもちろんのこと、テレビなのにインターネットに接続できたり、リモコンで音声検索なんかもできる、昭和生まれにはびっくりの新時代テレビだった。

 

最新テレビを手に入れた私は、そのテレビでYouTubeを見るようになった。私が、というより娘が見だした。

 

子供とYouTube

小さな子供にyoutubeを見せるなんて!!という意見はあると思うし、多分その意見は正しい。かくいう私も今これを書いていて、そういえば娘が小さい頃は、見せる映像作品はディズニー映画やしまじろうに限っていたな、と思いだした。まあyoutubeを見せないようにしていたというより前述の通りテレビが古すぎてYouTubeを映すことが出来なかっただけなのだが(スマホを渡すという考えは無い)、それでも素人の作った変な動画を見るより、映画などきちんとしたプロの仕事により生み出されたものを見た方が、感性を養うにはよいのかなと思っていた。家の裏がレンタルビデオ店だったので、娘が見たがればいつでもDVDをレンタルしていた。

知り合いの方で、お子さんは7歳になるが、まだyoutubeなんて見せたことないよ!という素晴らしいお母さんも存在する。我が家の場合は、引っ越しの時期がちょうどコロナ全盛期で娘がずっと家にいたこと、前述した最新テレビのリモコンの一番目立つ上のほうに、押せばテレビではなくyoutubeが始まるボタンがついていたこと、インターネットにつなげるテレビをいろいろと触ってみたくて私もテレビでyoutubeを見たりしてしまったことなどいろいろな要因が重なり、娘はyoutubeのとりこになってしまった。結局娘は新居に移った3歳頃から残念なことにほぼ毎日YouTubeを30分程度見ているが、確かに、それが本人にとって全くもって何の学びにも成長にも繋がっていないと胸を張って言える。誰だかわからない素人の子供達が、きょうだいでキャッキャキャッキャと戯れていたり、どこぞの企業さんからお金を貰って楽しそうに最新のおもちゃで遊んでみたりするのを見て、得られるものなどあるわけが無い。それどころか、1度見てしまえば「もっと見たいもっと見たい!」である。娘には4歳の時に「依存性」という言葉を教えた。それはあなたの事だよと。私の娘は、普段色々な場面において、するべきまたはしないでおくべき行動について、理由から話せばすぐに本質を理解し、年齢の割には、自身の行動を自律できる子どもだ(と私は思っている)が、ことYouTubeに関しては、取り憑かれてしまったかのように冷静さを失う。私の方も、自分が許可した癖に、「良くないものを、見せてしまっている」という不安もあってこれまた冷静さを失い(親失格)、普段多分お互い気を使いあって優しく付き合っている私たちが、泣いて叫んでの激しいぶつかり合いを過去3度にわたって繰り広げた。繰り広げられた諍いが、彼女の情緒に大変な影響を及ぼしてしまっているのでは無いかと気が気では無い。

それでも最近では、娘も自分でテレビのスイッチをOFFできるようになってきたのだが、テレビのスイッチをOFFするたびに母親への憎悪が1ミリずつ堆積していっているような気もする。そしてその堆積した鬱憤が思春期に雪崩となって私に襲い掛かってくる気がしてならない。与えるのが早すぎたのだろうか。第一子の子育ては、毎日が新しい発見☆・・・といえば聞こえが良いが、実際は「未知の世界における確信の持てない判断の連続」で、その判断は大体ほぼ全部間違っていることに後から気が付くのである。その後悔と罪悪感が自分にどんどん襲い掛かってくる上に、我が家は一人っ子なので、その貴重な失敗経験は、他に生かされることもなくただ死んでいくのである。

 

YouTubeにはほぼデメリットしかないのでデメリットばかり書いてきたが、ならばなぜ見せ続けるのかということになってくる。

 

今何を見て楽しいの?

娘が見ているYoutubeであるが、基本的に、私も全部一緒に見ている。(おい暇だな、と思われるかもしれないが、私はその時間を捻出するために結構頑張っている。)私は娘が興味を示すものは虫でもトランポリンでもプリキュアでもYouTubeでも何でも、一緒に楽しむことを心がけている。何せ初めての子育て、相当頭でっかちにやっており、その昔読んだ何かの書籍に、「1~2歳ぐらいのこどもは、自分の好きなものを親が一緒に楽しんでいるか実は見ている」というような記述があったのを鵜吞みにして、それからもう何年も経ったが今もずっと「娘と一緒に楽しむ」をやっているのである。そのため、子供向けのyoutubeは相当見ている方だと思う。

私も一緒に見ていると、娘との共通の話題はどんどん増えていく。元来コミュ障で出不精、読書以外になんの趣味もない無味乾燥人間(私)にも、数え切れないくらいの「好きなもの」が出来た。プリンセスにプリキュア、パウパトロール、マリオ、カービィポケモン、すみっコぐらしにスライム、スクイーズガシャポン、クレーンゲームetc・・・まだまだこれで半分も行かない。この中のほとんどは、関心がないどころか、ちょっと嫌いなものまであった。カービィポケモンなど、どこが可愛いねんと思っていたが、今や銅たくをモチーフにしたポケモンドータクンでさえもかわいいと思える。娘と一緒に楽しみまくっているのである。 

 

ちなみにドータクンはこれ

zukan.pokemon.co.jp

 

でもそれYoutubeじゃなくてもいいのでは?Youtube見てないうちの子でも、それら全部知ってるけど…という声が聞こえてきそうだが、私にとって、Youtubeは大事な情報源となっている。上の羅列の半分ぐらいはYoutubeを見ていなかったら知り得なかったと思う。2人で(または家族3人で)Youtubeを見る→Youtubeでやってたあれ、やってみる?→めっちゃ楽しい!これが結構多い。スライムなど何度作ったか分からない。ヒカキンクッキングは、出る度に真似している。

 

娘は今こういうのが楽しいんだな、というのがわかれば、園のグッズ(おはしやハンカチなど)を選ぶとき、本人がいなくても趣味ドンピシャのものを買ってくることもできる。そうすれば買ってきたものを渡すときちょっとだけ尊敬されるのである。「お母さんは私の好きなものをわかってる!」と思ってもらうのは意外と重要なんじゃなかろうか?

 

子供の好きなものがわかる、そしてそれを一緒に楽しめるというのは、私の人生において、結構貴重な体験だと思っている。

 

理想の母

娘が好んで見ている、「家族で遊ぶ系」チャンネルに出てくるお母さんは、みんな軒並み優しい。当たり前である。子供に怒り散らしている様子を好き好んでインターネットにアップするお母さんなどいるはずもない。きょうだいたちにむかって「今日は〇〇するよ~」と楽しく呼びかけ、子供が喜ぶ仕掛けを作り、子供の反応を笑って認め、時には一緒に楽しく遊ぶ。まさに理想そのものである。もちろん、それらが幻想であることなど誰もがわかっている。でも、その幻想を、「どうせ金儲けのため」とか「画面の中だけだろ」とか言わずに、実現してみたらどうなるだろう?そんな明るくて楽しくて優しいお母さんに育てられたら、子供にとって最高なのでは?と私はそう思ったので、日々「Youtubeに出てくるお母さん」をお手本にして過ごしている。私が小さいころ、私のお母さんは24時間365日不機嫌だった記憶しかないので、自分が「お母さん」になってみて、どんなふうに「お母さん」をすればいいのか、ちょうどわからなかったところなのだ。

 

 

永遠の中2

気持ち悪いことを言うが、私の精神年齢は12~13歳ぐらいから成長していないという自覚がある。ふざけているのでもなく、感傷に浸っている?のでもなく、本当に心からそう思う。また別で書けたらと思うが、私は子供時代、家でのびのびと子供らしく過ごした覚えがない。そのおかげで、30を過ぎても情緒が不安定、自分に自信もないし、考え方が極端で、人の目が気になり、挙句に今も親からの愛情をずっと求めてしまっている(が残念ながら叶うことは無い)等様々な自覚症状?があり、生きづらくてならない。この生きづらさはいったい何なんだと色んな本を読み漁った結果、私はきっとアダルトチルドレンというやつなんだろうと思い至った。

精神年齢が低いからなのか、私は、娘とYoutubeを見ていて、面白くない…苦痛だな…と思うことがほぼない。むしろ本当に面白いなと思って見ていることに、これを書いていて気がついた。

 

 

母の嘲笑

24時間365日不機嫌だった母は、私が好きだったものをことごとく否定し、馬鹿にして笑った。

私はスタジオジブリ作品の「耳をすませば」が大好きだった。当時は金曜ロードショーをビデオテープに録画したものを繰り返し見ていた。リビングにしかテレビが無かったので、基本的には両親がいない時を狙って鑑賞していたが、それを家族が目にすることもあった。

ある日、母はテレビの前の私に向かって「この女の子と自分を置き換えて観てるんやろ?アホやな~!!!恥ずかし!!」と馬鹿にして笑った。母がどういう意図をもってそういったのか、それとも何も考えずに思ったことを言っただけなのかはわからないが、言われた私は本当に恥ずかしかった。この映画を好きだと言ったら他の人にはそういう風に思われるんだ、と思い込むことになった。それからはその映画が好きだということを人前で言うのもはばかられた。

今考えてみれば、主人公に感情移入せずにどうやって映画を見ろというのか、それに自分が好きなものを好きと言って何がいけないのか、と色々反論もできそうなものだが、まだ幼なかった私は母の言葉を真正面から受け止め、柔らかい心に、その嘲笑がグサリと刺さった。母は何かにつけて私を笑い、馬鹿にしていた。本当に不思議でならない。私は幼稚園の頃から本ばかり読んでいた記憶があるが、「あんたは小さい頃から本ばかり読んで可愛くなかった」と常日頃言われていたし今でもずっと言われる。( 私なら絶対にそんな事言わない、好きなだけ本を読めと言うだろう…とは思うものの、私も今現在、娘の好きなYouTubeについて「よし、いくらでもYouTubeみていいよ!」と言えていないので結局母と同じなのかもしれない。)

そんなこんなで、自分の好きなことや、やりたいことは、公にすると馬鹿にされてり笑われたりする可能性があるので、人に隠れてやった方がいいと私は思い込んで育った。

 

 

 

インナーチャイルドが泣いて喜んでいる

最近、金曜ロードショーで「耳をすませば」が放映された。私はいそいそと録画予約をし、休日の朝、早起きした日に一人でそれを見ていた。すると、かなり早い時間だったのだが、娘が一人で起きてきた。(子供というのはなぜか休日に限って早起きをする。)

私はもう30歳を過ぎているというかもうすぐ40歳になろうかという段であるが、母に笑われてから何十年も経っている今でも、この作品を好んで見ていることを知られるのが「恥ずかしい」と感じた。しかも幼稚園児相手に!しかし、娘は私のそんな羞恥心?を尻目に「これなんのまんが」と興味を持った様子だったので、とりあえず最後まで一緒に見ることにした。学校に行ったことのない娘に、この話はおもしろいのか?と思ったのだが、最後まで見た娘の感想は「めっちゃ面白かった!」だった。1番最後の「結婚してくれ!」というわかりやすいワードが幼稚園児の心に刺さったらしい。「最初はおもしろくないんかな~と思ったけど~、最後めっちゃ面白かったわー!」と言っていた。

 

私はとても、嬉しかった。自分の好きな物をいいねと言ってもらえること、それも自分の大好きな人(この場合は娘)に言ってもらえたら、こんなにもうれしいものかと感じた。

私が子育てをしていると言うより、娘が私の中の、寂しい子供と友達になってくれているような感覚、子供時代をもう一度やり直しているような穏やかな感覚が、いつもある。

でもそれが娘の成育にとっていいのか悪いのかは、ちょっと不安なところではある。

 

 

好きなものを好きだと言いながら育ってほしい

娘はまだ小さいので、私が何を楽しんでいても笑わないし、好きなものを好きと言っても馬鹿にしない。

私は子供の頃、わんさか子供がいるところに住んでいた。広い敷地に20 棟以上の団地があり、小学校は1学年5クラス、中学校は10クラスあった。そんな環境で、私を含めた子供たちの中ではいつでも「みんなと同じ」が最重要の価値観だった。

「○○ちゃんって○年生になったのにまだセーラームーンみてるんだって!ダサーい!でも○○ちゃん、見てないって嘘つくんだよ、おうちからテレビの音が聞こえてくるのに!!」

正直、別に何年生になったって好きなものを好きな時に見ればいい話なのである。でも、私が子供をやっている頃は、いつだってこんな調子で気が抜けなかった。だから大人になって、ずいぶん息がしやすくなった感覚がある。

今の子供たちのあいだでは、どういう価値観が標準なのかは分からない。今も昔も、「集団」が大事にするものは、残念ながらそう変わらないのかもしれない。でも今世界中でせっかくSDGsとか、優しい社会がとか言っているなら、中学生がプリキュア見たっていいし、男の子が編み物したっていいし、好きなものを好きだと堂々と言える雰囲気の中で、私の子供が過ごせたらいいなと願う。そのためには私も、他の人からどう思われるか、を基準にして娘に接することはしない。私の力で社会を変えるのは無理なので、最低限、家の中では彼女の心が自由に過ごせるように、尽力したい。

 

参加しはじめました

 

 

④コーヒーは健康にいいのか

どうもこんにちは

見に来てくださって、ありがとう。

 

最近は小学生でもコーヒー

とある高校に勤めていた頃、高校生がみんなしてコーヒー(とエナジードリンク)を飲んでいることに結構びっくりしたのを覚えている。私がコーヒーを飲めるようになったのは二十歳を過ぎてからである。ところが最近、知り合いの、なんと、小学校3年生の娘さんがコーヒーを飲んでいて、これには 心 底 驚いた。小3でコーヒー!私が小学生の頃なんて、パピコのチョココーヒー味でさえも、にが!なにこれ変な味…と避けていた覚えがある。

 

…となんでも昔の自分と比較したがるのは、歳をとった証拠なのだろうか。

 

私は紅茶が好き

私はコーヒーより紅茶を好んでよく飲んできた。紅茶の味が大好きで…というよりは、私にとってコーヒーは苦すぎたし、それに「みんながコーヒーを選ぶ時、紅茶を選んで飲む自分」に酔っていた部分が大いにあると思う。それでも、小学生の頃、父に初めてアイスティーを作ってもらったあの日以来、確かに私はずっと紅茶を愛しつづけてきた。

そのうん十年の間、世間では紅茶ではなくコーヒーのブームが世界中で巻き起こっていたようで、その大きなうねりは、なんちゃらウェーブなんちゃらウェーブと、私が住んでいる中途半端な地方都市にも確実に押し寄せてきていた。中学生の頃、近所のイオンにスターバックスができてからずっと、じわじわとコーヒーブームを感じてはいたものの、変わらず私は紅茶が好きだった。

 

コーヒーもおしゃれだった

紅茶が好きと言っても、紅茶の味ではなく「おしゃれさ」に酔っていた私である。コーヒーブームの高まりとともに、コーヒーの持つ「おしゃれさ」にも、抗いがたい魅力を感じ始めた。特に、スタバの店内のおしゃれなこと!おしゃれ空間で、PCに向かうビジネスマンや、読書にふける女性!「コーヒー片手に」というワードの響き!!素敵~…と吸い寄せられるようにスターバックスへ行く頻度が増えていく。学生の頃友人と訪れていたとき、頼むのはフラペチーノばかりだったけれど、社会人になって、さあ私も一人でコーヒー片手に…となった時には、ちゃんとコーヒーを頼むようになっていた。ご存じの方も多いだろうが、昔スタバには牛乳も蜂蜜も入れ放題(語弊)のコーナーがあったので、飲んでは入れ、飲んでは入れして(最低の客)なんとか苦みを薄め、おしゃれに浸っていた。感染症が流行りだしてそのコーナーはなくなってしまって、残念至極ではあるが、その頃には私も受け取ったコーヒーに何も追加せずに飲むことができるようになっていた。

 

 

コーヒーを趣味にしよう

物心ついたころから、私の趣味は読書だけだった。今でも物語を読み始めてしまうと、全部読み終わるまで食事睡眠等の生活全般がどうでもよくなってしまう。さすがに娘を放置して本を読んでいる場合では無いため、私は子供が生まれて以降、長い物語を読むことを自分に厳しく禁じている。おかげでここ数年は完全無趣味生活を送っていたわけであるが、そんな中、何がきっかけか、コーヒーを私の趣味にしよう!と唐突に思い立った。コーヒー周辺のおしゃれを、ものにしたいと思ったのだ。

早速道具一式をそろえることにした。やるなら本格的に、イタリア直輸入のエスプレッソマシンを導入して…と行きたいところだが私の月のお小遣いは1万円なので、とりあえずドリッパーとペーパーフィルター、それから粉状の豆を近くのカルディでそろえた。家でコーヒーをいれるということに対してなぜか、私に出来るわけない、私なんかがやっていいことでは無いと思い込んでいたが、始めるにあたって、道具は2個だけ、しかも500円もせずそろったのでわくわくした。先の細くなっているポットも欲しかったが、これは高価で、この趣味が長く続くかわからなかったのでやめておいた。

 

そこから私のコーヒー生活が始まった。UCCのサイトで動画を見たり、図書館で本を借りたりして、美味しい入れ方を練習。色んな種類の豆を試しては好きな風味の豆を探し、どんどんコーヒーにのめり込んで行った。

 

コーヒーをもっと普及させ(て儲けたい)人は、コーヒーを飲むと健康になると声高に言うだろう。ペットボトル入りのコーヒー飲料にも「一日3杯のコーヒーで健康に」と書いてあったし、Webサイトなどでは「ポリフェノール(クロロゲン酸)の抗酸化作用でアンチエイジング!」というのと、「コーヒーアロマでリラックス」と書いてあるのを本当によく見た。

 

よく見て、私は真に受けた。

 

「コーヒーは飲めば飲むほど健康になれる!!!!!!」

 

私の勢いは止まらなかった。コーヒーを飲むのは月に1回行くか行かないかのスターバックスだけ、だった私が、のめり込んで2週間後には、1日に1.5リットルは飲むようになっていた。もっと多かったかもしれない。本当に飲めば飲むほど健康になれると信じていたし、オシャレの仲間入りを果たしたと思っていた。だから、コーヒーに入っている「あの物質」の体への悪影響についての情報などはとてもよく目に入ったものの無視した。コーヒーやカフェを特集したオシャレな雑誌や、健康に良いと書いてある情報しか見なかった。

 

 

禁断症状

仕事があり、子供もいて、家事もある。私に自由な時間などない。趣味に費やす時間を捻出するには、夜更かしするか早起きするしかないのである。たまたま、コーヒーにのめり込んでいた時期が夏だったため、私は早起きを選択した。朝早く起きて、職場に持っていく用の500mlの水筒2本分&家を出るまでに飲む用の500mlを入れ、夕方から夜にかけても500ml以上飲んでいたので最低でも1日2リットル以上は飲んでいたらしい。

 

コーヒーにのめり込んで1ヶ月程たった頃、その日は寝坊して、コーヒーを一滴も飲まずに出勤してしまった。特に気にせず仕事をしていたところ、昼前頃にびっくりするくらいの頭痛に襲われた。私は幸運なことに頭痛というものを、人生でほとんど経験したことがない人間だったので軽くパニックになった。そしてその頭痛のせいなのか、凄まじい吐き気も一緒に来た。…………………コーヒー!!!!今日はコーヒー飲んでない!!!!そのことに気がつくまで、数時間かかった。そして、私は見ないようにしていた「あの物質」の怖さを知ることになった。

 

趣味とかじゃなくてただの依存性

「あの物質」、もちろんカフェインである。

今さっき適当に調べたところ、カフェインはドリップコーヒー150mlに90mg程入っているという。日本では一日の摂取量の上限をハッキリとは決めていないようであるが、欧米では健康な成人で1日300~400mgまでと決められている国もあるらしい。確実にそれ以上飲んでいたが計算しやすいので仮に私が毎日1.5リットル飲んでいたとしたら、毎日900mg、欧米基準の3倍のカフェインを摂っていたことになる。コーヒー生活前から考えると、カフェインほぼ0→急に900→0=禁断症状←今ここ、というわけである。

 

コーヒー生活中は、どこの誰が書いたのかも分からないサイトの情報でも、「良い」と書かれているものを全て積極的に鵜呑みにしていた。カフェインの情報も、目にすることはもちろんあったが、「カフェインが効いてくるのは30分後なので、飲んだあと30分以内に寝る場合は飲んでもOK!」などのめちゃくちゃな情報を探し出し、安心していた。今考えれば、飲んでもOK!って一体誰が誰にOKを出しているのか、甚だ疑問であるが、OKが出たので私は素直に信じて、寝る前も飲んでいた。普通に考えて、飲んでいい時と悪い時があるなんていう飲み物や、たくさん飲むことで健康上のリスクがあると明らかになっているような飲み物を、普通の人なら大量に飲んだりはしないだろう。そんなことも分からずに、私がせっせせっせと早起きしてコーヒー生活☆おしゃれ☆などとやっていたのは、ただの依存性だったのである。

 

 

その後

頭痛はだいたい2週間で治まると書いてあるサイトが多かったが、私の場合は20日経ってもまだ頭が痛かった。というのも、頭痛が発症したその日にカフェインの怖さを思い知った私は、今度はその日からコーヒーを全く飲まないようにしたので、余計に頭痛が長く、酷かったのだと思う。徐々に減らして…が基本かなと思ったし、周りの人にも言われたが、あの日私の中ではコーヒー=怖い飲み物と認識が変わってしまった。(また別の記事で書けたらと思うが、私の性質としてなんでも極端というところがあるのは否定できない。)

頭痛を抑えるために飲んでいた鎮痛剤にカフェインが入っていたので、これで少しは摂っていることになるだろうと思っていたのもある。

 

 

猪突猛進型の世間知らず、つまりはアホなのである。

いつか壺を買わされる気がして自分でも怖い……例えがすごく古臭いのは昭和生まれだからだろう。

 

③不調 オブ 不調

どうもこんにちは。

朝、男子高校生と自転車で激突。

(でも中身入れ替われなかった)

 

見に来てくださってありがとう。

 

 

名も無き不調

ここ2~3年の話。なんでこんなに調子が悪いんだろうと不思議に思うくらい調子が悪い。1番感じるのは、常に胸の当たりが「う゛ー」っとしていてとにかく気持ち悪い。いつもちょっと吐きそう。だるい。しんどい。とにかくイライラする。寝ても寝ても寝た感じがしない。途中何度も起きる。時間だけで見れば9時から7時まで10時間寝ても、朝しんどくて起きられない。夕方になったら毎日謎の微熱。真夏なのに寒くて毛布にくるまる日々。優しくいたいのに、イライラしたり落ち込んだりして、人付き合いがどんどん億劫になっていく。とにかく1人になりたくてたまらない。年々生きづらさが増していく。

 

 

とはいえ、すぐ入院しないといけないほどどこかが痛いとか、どうにもしんどすぎて仕事に行けないとか、今すぐ死にたいほどキてるとかそういうわけでは無い。でも、しんどい。

 

 

病院嫌い

そんなに不調なのに病院に行かないのは私が病院嫌いだからである。病院に行って検査をしてもどこも悪い所がなく、「まぁ、ストレスですかね」と、言われるのを恐れている。ストレス!!!私は母親から「あんたが私のストレス」と毎日言われて育ったので、自分は存在しているだけで母のストレスで、悪者なのだと本気で思って生きてきた。それがおかしいとはっきり気がついたのは成人後数年経ってからなので、人生を随分無駄にした気がしている。一方母はそのストレスとやらを理由に「病気」になった。それから30年病院に通っているが「病気」は治るどころか年々酷くなる一方である。心療内科の「先生」はお客(患者)の言葉を絶対に否定しないので、延々と愚痴を聞いてくれる。病院に行くたびに「私は正しい」「私の病気は周りのせいだ」との確信を強めることが出来る。「病気だから」何を言っても許されるし、「病気だから」周りの人は何も言えない。そんな人が病院に通っても、その「病気」は治るはずがない。もし治ったら困るのである。病人でなくなってしまったら、頑張らないといけなくなるのだから。

そんな母を見ているので、私は心のどこかで「病院に通いだしたら、病気は治らない」という考えの偏屈女になってしまった。なので、しんどいのはしんどいけれど今はとりあえず病院に行かなくても日々やれているし…と病院に行かない言い訳を並べつつ、自分で調べた健康法の中から、いいと思ったことを片端から試して、不調を改善したい、そう思っている。

 

この不定愁訴の陰に、大きな病気が隠れているのかも、と思わないこともないが……そこは自己責任である。

掛け捨ての保険ぐらい、そろそろ入った方がいいのだろうか…?

②はやりの歌が心に沁みない

どうもこんにちは。

見に来てくださってありがとう。

 

昭和生まれ

最近、長い歌番組で、よく「平成の」とか「懐かしの」特集をやっている。私のような古い人間に気を使ってくれているのか、アイドルの人も、自分の歌をうたわずに、昔の古い曲を歌わされて大変である。この間(たぶん)亀梨くんが、テントウムシのサンバ?を一人で歌っていて、これはいったい誰へのメッセージ…?と心の中がはてなでいっぱいになった。

 

今TVを見る世代の心を満たす方法としては、てんとう虫のサンバが正解なのだろうか。

 

 

あたらしい音楽のはなし

私の弟によると、人は33歳以上になると、新しい音楽を聴かなくなるらしい。ああ確かに、もうずいぶん聞いてないな新しい音楽を、と思う。

 

まず聞き方がわからない。

カセットテープの終わりごろに音楽を聴き始め、MDウォークマン全盛期〜Ipod出だしぐらいがピークで音楽を聴いていた私としては「TSUTAYAでCDを借りてきてPCに取り込んだデータをソニーウォークマンに入れる」以外の曲を聞く方法がいまだによくわかってない。

 

……いや本当はサブスクにお金を払うのがもったいないと感じている。こういう人はそれなりにいるのではないだろうか?

 

 

焦り

でもさすがに「スマホで音楽を聴く」ができないというのはちょっとマズいか?と思って一回スポティファイというのをインストールしてみた。有料のサービスが全部無料で使える最初の一週間、「何だこれ…!最高か…!!!」

好みの音楽が毎日の生活を彩ってくれる。

豊かな生活に感動

 

 

…したが、一週間過ぎて有料プランにしますか?の問いには間髪入れず「NO!」を押し、その後スポティファイを一回も立ち上げることなく何ヶ月もすぎた。でもそれで全然苦痛なく過ごせているのである。

 

 

感性が死んだんか?

新しい音楽を聞いてないだけではなく、新しい曲を耳にしても、心が全然動かされないようになってしまった気がする。前述のスポティファイでも、正直聞いたことのない曲はひとつも聞いていない。最新の音楽を聴くためにやってみたスポティファイのはずが、結局20年前のゴスペラーズばかり聞いていた。

 

この間テレビで長い歌番組をやっていたので見ていたら、読み方のよくわからないバンド名のバンドの人達が演奏を始めるところだった。そこで、私なりに真剣に、字幕の歌詞もしっかりと見て、この人たちの伝えたいメッセージは何だろうと思いながらその曲を聞いてみた。

 

そうしてみたが、全く心に何も残らなかったのには自分でも驚いた。そのバンドの人はもう、息が止まってしまうのでは無いかと言うほどの熱唱熱唱で、ギターの人もドラムの人も髪を振り乱し、演奏し終わった時には4人で顔を見あわせて「やったぜ!」、その空気に観覧の人たちも「わぁあああ!」とスタジオが一体となっていたのに

私の心にはさざ波一つも起こっておらず、私心死んだんか?と思ったのだけれど

それも33歳を過ぎたからなんだろうか。